【Wildflowers Letter vol.30】花を植える女
こんばんは。パスタの一人前が100gって、少なすぎません?ミホ子です。
久しぶりに100gずつで束になっているタイプのスパゲッティを買って食べたら、一分くらいで食べ終わっちゃって本当にびっくりしました。え、今何が起きたの?って感じで。珍しく市販のパスタソースで食べたんですが、そこにも100gにつき一袋って書いてあるんですよ。おかしいぞと思って実験した結果、わたしには200gがちょうどよいことが判明しました。皆さんどうしているんですか?具だくさんにしてかさ増ししてるんですか?他のおかずを用意しているなんですか?せっかくお手軽に済ませたいのに?
じゃあご飯一膳は何グラムくらいなんだろうと気になり調べてみたところ、大体150gらしいです。わたしはがっつり盛るので多分200gはいっているでしょう。やっぱりね!と思ったのですが、パスタの100gってもしかして茹で前の話では……?と思い至り、恐る恐る調べてみると、乾麺100gは茹でると2.2〜2.5倍になるので、実質220〜250g食べているということになるとのこと。えーっと、つまり乾麺200gを食べるわたしは実質440〜500gのパスタを一度に摂取していると……?
物事には数値化しないほうがいいこともありますね。勉強になりました。
最近のカウンセリング事情
最初はあんなに抵抗があったカウンセリングですが、ようやく定着してきた気がしています。相変わらず「この二週間はどうでしたか?」の問いには毎回困っているんですが、最近は生活を送る中で、これはカウンセラーに話したほうがいいかもと思ったことをメモしておくスキルを身につけたので、それを見ながら話すようにしています(何も準備できない時ももちろんありますが)。
前回は、家で『わたしは最悪。』と『ピアノ・レッスン』を観て、両映画の主人公である女性が二人ともいい意味で自己中心的に生きる姿が眩しかったと話したら、「それは、自分はそれを実践できないと感じているからですか?」と聞かれ、しばし考え込んでしまいました。よくよく思い返すと、わたし、そのマインドを持っていないわけではなく、何なら元はそういうスタンスでやってきていて、ただ体調を崩してから全然体現できていないだけではないかと思い至りました。なぜ以前のようにできないのか。それは、当時の仕事の特性がかなり関係している気がするのです。担当していた事業が大雑把にいうと社会貢献色が強かったんですよね。なので、わたしが働く=誰かのためになっている感覚がすごくあったし、そこに意義や意味を見出していたんだと思うんです。でも、今のわたしがやりたいことはあくまで自分だけのためというか、自己満足で終わることで。そうすると「こんなことやって何の意味があるの?」という疑問が常にわたしの中から湧き出てきて、やりたい気持ちを打ち消してしまう傾向があるなと。
と、まぁそんなことをポツポツ言っているとカウンセラーの先生が「本当の意味で他者に影響を与える人というのは、自分の人生を生き生きと送っている人」「自分らしく生きることが思いもよらないところでいい影響を生むかもしれない」と言われ、結構頭がクリアになりました。そう、たまにいいこと言うんですよ、うちのカウンセラー。分かりやすい例が大谷翔平ですよね。彼はボールを投げたり、棒で打ったりしているだけだけど、めちゃくちゃ楽しみながらやりたいことをやっているから、多くの人にポジティブな影響を与えているわけで。
この考え方、かなりわたしに合っている気がしています。別に影響力のある人間になりたいわけじゃないですが、歳を重ねるにつれて誰かの役に立ちたい、社会をより良くしたいみたいな気持ちって大きくなってくるじゃないですか。多分、これからを生きる小さき者たちのために、とか、先人たちが繋いでくれたバトンをつなぎたい、みたいな。まぁ、社会貢献は何も仕事でしなくちゃいけないものじゃないですしね。うん、すごく気持ちが軽くなりました。カウンセリングはたまにこういう当たり回があるので、引き続き通ってみようと思います。
しかし、この12月下旬から最近まで新しい薬の調整が上手いこといかず、本当に苦しい日々でした。悪夢と金縛りで何度予定をドタキャンしたことか……。デエビゴ、お前のことは絶対に忘れてやらないからな。今は薬を変えてもらって少しずつ生活を整え直しているところです。新しい仕事も始まってなかなかPCに向かえない日々ですが、また少しずつペースをつかめたらと思っております。
それにしても、最近メンタルクリニックも二週間に一回になり、通院がなかなかに面倒です。医療費貧乏になりそう。
花はセクシュアリティそのもの
今回はオリヴェイラ監督『アブラハム渓谷』を批評していきたいと思います。観たのは二ヶ月近く前なのですが、未だに思い出しては色々考えてしまう、本当に印象深い映画でした。
ポルトガル・ポルト出身のマノエル・ド・オリヴェイラ監督。その監督人生はサイレント映画時代から始まりますが、初の長編映画の興行的な失敗や当時のサラザール政権を批判したことによって逮捕された影響からしばらく活動が途絶えるものの、その後見事に映画界に復帰しました。80年代に入ると国際的にも知られるようになり、批評家セルジュ・ダネイに「現在もっとも偉大な映画作家は誰だと言えば、それは確実にマノエル・ド・オリヴェイラだ。」と言わしめ、90年代には長編を年一本という驚異的なペースで制作しました。今回わたしが観た『アブラハム渓谷』は84歳で撮ったというから驚きです。宮﨑駿が『君たちはどう生きるか』と発表したのが82歳なので、それを踏まえて考えてもすごすぎる。2015年に106歳で亡くなりますが、昨年には没後10周年企画として日本で特集上映がなされ、わたしも初めて観る機会を得ました。
『アブラハム渓谷』は、フランスの作家フロベールの『ボヴァリー夫人』のアダプテーション作品です。『フランシスカ』(81)でタッグを組んだ現代ポルトガル作家のアグスティナ・ベッサ=ルイスが書き下ろした原作『アブラハム渓谷』に惚れ込んだオリヴェイラ監督が映画化したのが本作です。
舞台はポルトガルのドウロ河にある谷、アブラハム渓谷。神が傲慢と恥と怒りの自戒を込めて人間に託したとされるその地で農園を営む医者カルロスは、聖母祭で賑わうラゴメの街で際立った美貌を持つ14歳のエマに出会います。その後二人は結婚するものの、仕事で家庭を顧みない夫や心ない中傷をするカルロスの姉たちによってエマは孤独を感じるようになります。しかし、ある夜に訪れたダンスパーティでエマの生活は一変します。ボヴァリー夫人さながらに男たちに愛され、情事を重ねていく先にエマが探し求めていたものとは。
3時間を超える大作ですが、どこを切り取っても見事なポルトガルの風景とドビュッシーやベートーヴェン、シューマンらの〈月の光〉、そしてもちろんエマを演じるレオノール・シルヴェイラの妖艶なまでの美しさとが相まって、うっとり見惚れてしまう映画体験でした。そのなかでも今回わたしが特出して言いたいのは、エマが手にする花が意味するものについてです。
エマが象徴的に花に触れる場面は三回。一度目は14歳のエマが6歳で失った母とのつながりを思い出すシーン。母胎にいたときの記憶を持つエマは赤いバラを一本手にとり、その中に中指を差し込み、花芯をまさぐります。その官能的さといったら、なにか見てはいけないものを見てしまった気さえするほどでした。二度目はエマが家を出る際、洗濯女リティニャに手渡す黄色いバラ。耳と口が不自由な彼女は、エマが心を許している数少ない存在で、恐らく会うのは最後になると察した二人の固い抱擁は、言葉にせずとも伝わってくるものがありました。三度目はヴェスヴィオ園に住む不倫相手の館で。物語の終盤、エマはヴェスヴィオ園を築いた五代前の大奥様の肖像画に白いヒナギクをたむける。
女は真実の愛を探しているとよく言われるが、わたしが思うに、その愛はなにも男性からしか与えられ得ないものではないのではないだろうか。そう感じたのは、劇中で唐突に差し込まる同性愛についての議論だった。
「オペラが死んだと?」
「そこまでは言わない。現代はすべてが消滅してしまう時代だ。例えば愛にしても…。叙情的な愛はもうない。偽善の快楽がベッドの快楽に打ち勝っている」
〜中略〜
「本当に?セックスも変わったの?」
「自由になり、味気なくなった。セックスだけで愛も情も無くなった」
「物事には理由がある。たぶん、同性愛というのは雌雄同体の名残なのだと思う」
「雌雄同体の名残りって何なの?」
「説明はむずかしいが、もともと雄と雌は一つの体の中に備わっていたのだが、ある時、激しく爆発し、雄と雌に分裂したのだ」
雌雄同体については、個人的に大変興味がありますが、今はこの同性愛の話題に着目しようと思います。不倫相手のオゾリオとその友人ふたりとテーブルを囲む場面。このシーン以外で同性愛というキーワードが出てくることはありません。この脈絡なく出てきた話題に少々違和感を覚えたのですが、1994年に日本で初上映された際のパンフレットを見ると、蓮實重彦との対談で監督自身がこう語っていたのです。
「花はセクシャリティそのものだといってよい」
この一文を読んだ時、わたしはある説が思い浮かびました。エマは、本当はレズビアンもしくはバイセクシャルだったのでは、と。女性に関するシーンでだけ手にする花、唐突な同性愛についての議論、監督のこの言葉。もちろん断定できないし、わたしが確認したところ、誰もこんな説を提唱していません。ですが、可能性はあったのではないかと思うのです。異性愛しか認められていない時代だったのであれば、エマ自身もその可能性に気付くことができなかったかもしれない。
ポルトガルにおける20世紀末のジェンダー観は、1974年のカーネーション革命、1982年に承認された新刑法での同性愛の非犯罪化の直後であり、現代の民主主義国家になるまでの過渡期だったのではと想像します。そんな時代の中で制作された本作を、発露できなかった欲望の物語として語り直すこともできるのではないかと思うのです。
以上、一鑑賞者の戯言でした。
この映画を観た勢いで、昨年新訳が出て話題になっていた『修道院覚書』(原題:Memorial do convento)を買ってしまいました。例によって値段を見ずにレジに持っていったら4,950円もして、思わず声が出ましたが。翻訳本の値段高騰がどえらいことになっている……。ブラジル人彼氏がいる友達にもこの本をおすすめしたら、律儀に買って読んでくれ、それを見た彼氏が大層びっくりしていたという話が面白かったです。

荒れ狂い咲くチューリップと共に。
最低最悪のその先
それにしても、上記の批評を書くためにポルトガルの近現代について少し調べたのですが、本当に多くの犠牲の上に民主主義が生まれたことを学べば学ぶほど、どうしても今の日本、ひいては極右化していく世界情勢に心が痛まずにはいられません。戦前回帰に向かう今の流れに戦々恐々としているのは、わたしだけではないはず(タモリは⦅新しい戦前⦆と表現してましたね…)。
特に8日の衆議院選挙以来、目を疑うようなニュースで溢れかえっていますが、皆さん、心は無事ですか…?正直わたしはまだ落ち込んでいます。それでも日々の小さな選択を通して、異を唱えていきたいと思っています。ただでさえ大変な毎日なんですから、それぞれのかたちで、できる範囲のアクションで抵抗していけたらいいですよね。
フランスの作家ジャン・ジオノは『木を植えた男』の中で、荒涼とした土地に「木」を植えることで平和や精神的な豊かさの尊さを表現しました。もし「花」が自ら選び取るセクシャリティや個人の尊厳を象徴するのであれば、わたしは花を植え続ける人でありたいです。かつて独裁政権化のポルトガルで、銃口にカーネーションを挿した人たちに敬意を表して。
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