【Wildflowers Letter vol.31】物語は幾重にも枝分かれゆく
こんばんは。この記事の下書きが消えて茫然自失中のミホ子です。
すっかり春めいてきましたね。ベランダガーデニングに精を出しすぎている今日この頃です。冬に植えておいたスズランスイセンやイングリッシュブルーベル、ムスカリなどもぐんぐん成長し、花を咲かせ始める子もいて、いと愛おしきかな。最近はベランダだけでは飽き足らず、敷地内の芝生にネモフィラの種を蒔いたり、木陰にアジュガを植えたりする始末です。タダで庭を手に入れたような気分で最高であります。明日はデルフィニウムのブラックナイトという品種の苗とその子用の鉢、あと培養土30Lと鉢底石が届く予定。春は土がいくらあっても足りねえです。そしてなんと、今月の初めについに念願のつるバラを買ってしまいました。やったー。「すみれの丘」という、なんとも美しいお名前の子です。大苗で買ったので、今年から名前負けしない美しい青バラを咲かせてくれる、はず。ただ、お値段なんと3,850円也。おったまげー。園芸って比較的お金のかからない素晴らしい趣味だと思っていましたが、とんだ勘違いでした。お金は無限にかかります。というわけで、一世一代のこの挑戦、失敗するわけにはいきません。バラ専用の土とデカい鉢を用意して、水のあげすぎによる根腐れに注意しつつ(やりがち)、適宜虫と病気予防のスプレーをして、毎朝つぼみのチェックをするなど、甲斐甲斐しくお世話させていただいております。ありがとうございます。他にもカンパニュラやサントリナ、エリゲロンなども新入りしていますし、去年に引き続き、ブルースター、カリロファスサニーチャープ、ブルーコーラルたちもまた新芽を出してきてくれているので、見頃になった際にはぜひ遊びにきてください。わたしが見せたいだけです。ちなみに、次に狙っている大物は藤です。
翻訳は橋じゃない、フェリーだ
だいぶ前の話になりますが、2月12日に御茶ノ水ソラシティで行われた第10回文化庁翻訳コンクールの授賞式およびシンポジウム「国際文芸フォーラム2026」に行ってきました。文化庁翻訳コンクールはポリー・バートンさんやサム・ベットさんなど、今をときめく英日翻訳家を輩出してきた超トレンディなコンクールです。現代文学部門と古典文学部門があり、審査員には私が尊敬してやまない鴻巣友季子さんと森山恵さんがいらっしゃいました。というか、日本人ですら読む機会がほとんどない古典(今回の課題作品は井関隆子著『井関隆子日記』という江戸時代の作品)を英訳するって、どれだけ高度なことをなされるんですか…。本当にすごいとしか言いようがないです。受賞者の皆さんのこれからの活躍に要注目です。
シンポジウムでは、第I部で作家の柚木麻子さん、王谷晶さん、翻訳家のサム・ベットさん、モデレーターに翻訳家・文芸評論家の鴻巣友季子さんがご登壇され、作家と翻訳家の共鳴力をテーマに、実際の翻訳小説出版までのやりとりや、昨今の欧米における日本文学ブームとは一体なんなのかについてお話しいただきました。その中でサム・ベットさんの一言が本当に言い得て妙でした。
「翻訳は橋じゃない、フェリーだ」
翻訳は、言語と言語の架け橋だとよく表現されるのですが、翻訳は建造してハイ完成、ではなく、常に人件費や燃料費などを必要とするフェリーなんだということですね。これを文化庁長官が来ているシンポジウムで言ってのけるサム・ベットさん、最高すぎませんか?文化庁といえば、今は国立博物館や美術館に収入目標を設けた悪行で最近話題ですが、本当に、文化や芸術はこんなにも簡単に衰退させられてしまうし、国家がこの国をどういう道に導こうとしているのかがよく現れるなとつくづく思います。
さて、シンポジウム第II部では、作家の桐野夏生さん、小川哲さん、翻訳エージェンシー森健一さん、モデレーターに文藝春秋の新井宏さんをお迎えして、日本文学の世界進出へのプロセスを作家、出版社、エージェンシーという様々な立場からお話しいただきました。欧米での翻訳出版の最前線にいらっしゃる森さんと新井さんによる、日本と海外における作家と版元の関係性、エージェント文化の違いや、それらをぶっ飛ばして海外エージェンシーと直接やりとりする桐野夏生先生のクレイジーさなど、大変興味深いお話ばかりだったのですが、まだ英語圏で翻訳されていない(!)という小川さんからの綺麗事じゃない、真に迫った質問の数々が本当に切れ味があってかなり良かったです。いやぁ、痺れましたね。構造的な問題をクリアしていくのはなかなか大変そうですが、是非とも頑張っていただきたいですし、文化庁はもちろん、日本の出版業界も必死こいてバックアップしてほしいところです。
それにしても、喫煙所で王谷さんや小川さんとエンカウントできたのがこの日一番のハイライトでした。
アダプテーション、それすなわち枝分かれ
エメラルド・フェネル監督『嵐が丘』観てきましたよ。公開初日に。今日はこの話をするために書いてますよ、えぇ。

原題はダブルクォーテーション("")が付いているのがポイントですね。
いやー、原作ファンからは結構反感を買ってるみたいですね。その理由は分かりますが。でも、わたしは原作があまりにも苦しかったので、キャサリンとヒースクリフが歯車の掛け違い、あるいは他者の介入によって(映画では悪意があったけど)引き裂かれたことをお互い知れて、言葉で愛していると伝えられてよかったと思いましたね。原作はそこをもっと読者に委ねるかたちで書かれていて、そういった崇高さというか、文学的な静けさはわたしも大好きです。大好物です。けど、それが映像化されていないからってこの映画が駄作とは思わなくて(だって、もどかしいほどヒースクリフとキャサリンの性愛描写って描かれてないじゃないですか)。読者、というかわたしが個人的に心の奥底で願っていた交わりが描かれて個人的に救われた気もしています。身体的な触れ合いによる幸福ってどうしたってありますからね。
そして、なんと言ってもチャーリーxcxによる音楽ですよ。皆さん、新譜はもう聴かれましたかね。これはあまりにアメージングで、事件です。こんなにも素晴らしいタッグがあるでしょうか。世界を席巻した後の一発目がこれって、すごすぎます。ただし、映画を観る前に聴き込みすぎると、挿入歌としては違和感を持つのでほどほどをおすすめします(アルバムがあんなにがっつりサントラ的な立ち位置だったなんて知らなかったんです……)。
また、以前のニュースレターでギレルモ・デル・トロ監督『フランケンシュタイン』に言及したときも書きましたが、ヒースクリフ役のジェイコブ・エロルディの造形および声(1997年生まれの28歳!196cm!)が好きすぎるウーマンとして、今回のビジュアルも大変ありがたく拝ませていただきました。本当にありがとうございました。のですが、わたしは今回のビジュアルに大満足してしまっていることにある種の後ろめたさを感じざるを得ずな面もありまして。非白人のキャラクターに白人俳優がキャスティングされることをホワイトウォッシュ、というのですが、ヒースクリフも孤児のためルーツが明確になってはいないものの、原作は黒っぽい肌をしている、と書かれているんです。わたし自身は原作を読んでいて、あの時代のヨークシャで肌が黒っぽい?とあまりイメージが湧いていなかったからか、あまり引っかかることなく映画を楽しめたのですが、この件の考察は、さえぼう先生の批評が大変勉強になりましたので、皆さんもご興味あればぜひ読んでみてください。
あと、美術や衣装にとてもこだわっていて、豪華絢爛って感じだったですが、もっと普遍的でクラシカルなものでも良かったかも、とも思ったり。そこは荒野の厳しさを感じたかった気がします。それに、二人のストーリーだけで魅せられますから。最近のゴシック小説映像化の流行りなんですかねぇ(『哀れなるものたち』『フランケンシュタイン』など)。
でも、個人的にいつも思うのは、映像化の一つの役目として、原作小説を手に取る人を一人でも増やす、というものがあると思うのです。つまり、そこがうまくいけばある意味成功なのではないかと。鴻巣友季子さんが訳された『嵐が丘』も重版しているようですし、それは今回の素晴らしい功績だとわたしは思います。もっというと、原作小説を忠実にビジュアライズすることだけが映像化の成功ではないですからね。ちなみに、『嵐が丘』は今回が8度目の映画化です。エミリー・ブロンテの『嵐が丘』という大きな樹の幹があって、それぞれの映画はそこから枝分かれしたパラレルワールドのようなものなんじゃないか。というのは、甘い考えでしょうか。幹がしっかりしていればしているほど、脇芽は増えるし、増えても揺るがないものです。
翻訳も、アダプテーションも、原作からの派生するという意味では繋がりがあるなぁ、なんていう着地で、今回は終わりたいと思います。最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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