【Wildflowers Letter vol.27】過敏で、過剰で、感情的なままで

「消された女性たちの系譜、私もそこに名を連ねる」
三島ミホ子 2025.12.08
誰でも

 おはようございます。なんとなく街が浮き足立ってきましたね。この季節が苦手なミホ子です。なぜだか毎年12月から1月にかけての雰囲気に馴染めないんですよね。うーん、多分、誰かとあたたかく幸せに過ごすことを強いられているような気分になって、なんだかそういう空気にペッ!と唾を吐きたくなるのです(妬んではいないです。みんな幸せなのが一番)

 今週も半分ほど寝込んでいた気がしますが、動けるときは隣駅の図書館に行って、本を読んだり勉強したり調べ物をしたりして過ごしています。陽が落ちてから活動できることが多いので、図書館が20時まで開いているのが本当にありがたい限り。一日3,000歩は歩けと言われているので、歩数も稼げていい習慣なのでは?なんて思っています。あと、実験的に自炊することを放棄してみました。誰かに料理を振る舞うのは好きなんですが、自分のためだけに作るとなると結構やる気が出ないことにようやく気づきました。昔は凝ったものを作ったりしていたんですけどね。とにかく今週は外食とウーバーイーツで命をつないだって感じです。その生活のなんとまぁ気が楽なこと。料理を作らないってこんなにストレスフリーだったんですね。びっくりです。皆さんも一度体験されることをおすすめします。まぁ、お金がもったいないので実験終了してまた大鍋作り置き生活に戻りますが。ミネストローネと豆乳スープはもう散々食べて飽きたので、今度はシチューとかおでんですかね。

リクレイム可能

 随分時間が経ってしまいましたが、一ヶ月前に参加した青山学院大学文学部日本文学科主催『松田青子文学フォーラム 「彼女」たちの労働・クィア・ケア』という講義の感想を書いていこうと思います。本当は現地に赴く予定だったのですが、朝から体調がぶっ壊れていたので泣く泣くオンラインでの参加でした(ハイブリット開催のありがたみを痛感)。

 なにを隠しましょう、わたしが一番敬愛してやまない作家が松田青子であります。

 まず、「松田青子文学」という字面を見たときの衝撃たるや。なんというんでしょうか、彼女の作品がアカデミックに研究されるべきものとして認められたような響きがするといいますか。もちろん彼女はそれに値するほど国内外で評価されていますし、今まで研究されてきていなかったのが不思議なくらいで、それほど素晴らしい作家で翻訳家であるのは当たり前の事実なのですが。なんだか一ファンとしてものすごく誇らしく感じました。まじかっけー、松田青子。

 講義の構成は、前半に三名の登壇者による研究発表、後半はディスカッサントを交えたクロストーク、そして最後に質疑応答、といった流れでした。意図していたのかは分かりませんが、司会の方を含め登壇者は全員女性で、非日本語ネイティブの方が七名中四名。なんなのでしょうこの安心感は。文学を論じるとき、多様な視点や語り口を持つことは、その議論をより深め、より多くの人に届くものにする大切なプロセスなのだなとひしひしと感じました。

 『スタッキング可能』に見る人間の均質性という絶望、そしてそれを反復することで浮かび上がる差異や個別性という希望。『おばちゃんたちのいるところ』の短編「ひなちゃん」から読み解くクィアを語りなおすことの重要性。同タイトルに収録されている短編「夜」にはケアと女性の柔軟な共助関係を。ストーリー、構成、文体、技法、その全てを駆使して過去、現在、そして未来を生きる多様な女性たちの生を祝福し、エンパワメントするのが松田青子文学。新たな視座を得て、今までも大好きだった物語たちがさらに大好きになる、とても有意義な時間でした。あと、一つの文学をとことん掘り下げ、追求することの豊かさになんだか心が熱くなりました。

 また、松田青子の著書は多くの言語に翻訳されているのですが、各言語の翻訳家たちに横のつながりがあることや、誰が誰のどんな作品を翻訳するかが社会に対するひとつのメッセージになり得るというお話しに、大変感銘を受けました。そして、当たり前のように第一言語ではない日本語でプレゼンする登壇者の皆様に最大限の敬意と賛辞を。

 今、松田青子をはじめ、多くの日本人女性作家が海外で評価されています。この動きに日本国内でも逆輸入的に再評価が進むのではないかと個人的には期待していたのですが、思っていたよりインパクトは感じられず、少々肩を落としていました。その背景を考えたときに、フェミニズムがどうこうというより、日本の出版業界の活気の無さが大きな要因なのではないかという一説にたどり着きました。コロナ禍以降、欧米ではZ世代を中心にリアル書店や読書会の人気が高まっているというニュースをよく目にします。しかも電子書籍ではなく、紙の本を手に取る人が多いのだとか。さて、日本の出版社各位、あなた方は本当に本を売る/届ける気はおありですか?その本の素晴らしさを一番分かっているはずのあなた方がなぜもっと創意工夫を凝らしたアクションを起こさないのでしょう。やはり、まだまだ旧態依然としている業界なんですかね。欧米でのムーブメントと日本を隔てているのは、おそらく大海原だけではないのでしょう。未だにいらぬ忖度が働いている気もしますし、変にお高く溜まっているのではと勘ぐりたくもなります。日本でも起きろ、読書ブーム。

 そして、さらにその背景を考察していくと、悲しいかなこの国の余裕のなさに行きつく気もするのです。この結論には以前も言及していますが、今の日本は本当にあらゆる意味で余裕がないように感じます。他者を思いやること、想像力を働かせることができないほど逼迫した生活、排外主義に加担することで自分こそ清く正しいんだと優越感に浸る人たち、そしてその土台を率先してつくっている権力者たち。国は国民に馬鹿のままでいてほしいんだ、なんて誰かが何かで言ってましたね。そんな殺伐とした社会をサバイブしていかなければいけないなかでどうして本を読む余裕など生まれるというのでしょうか。

 と、今の日本の政治情勢を憂いはじめるとキリがないのでここまでにしておきます。本ではなくても、誰もが好きなことを謳歌しながら暮らせるようになってほしいです。

精神疾患と書く女

 どうしてこの後に及んで書くことに固執しているのか。

 こんなことを続けて何になるのか。

 どうせ中途半端なものしか書けないに決まっている。

 書けないことに苦しめられるのなら、書かないと決めたほうがずっと精神的にいいではないか。

 ここ最近、こんな言葉たちがずっと頭の中にひしめいていました。定期的に陥る、底なしの沼です。全て図星だからこんなにも耳が痛いのでしょう。自分自身の胸の内から湧き上がってくるこの問いに答えることができないときは、自分は幼稚で、考えなしで、現実が見えていない人間だとしか思えず、ずいぶん苦しまされます。

 けれど、今回の底なし沼ではちょっと不思議なことが起きました。誠に恐ろしき正論がささやかれるとの同時に、ヴィヴィアン・エリオット(詳しくはvol.24をお読みください)のことが時折頭によぎったのです。ニュースレターに彼女のことを書いたことが作用しているのでしょうが、意識的に思い出さないと忘れてしまうくらい無意識に、ただ漠然と彼女のことを考えている瞬間が度々ありました。巨大な権威と偏見に翻弄された彼女の人生について知ったのはケイト・ザンブレノの『ヒロインズ』(西山敦子訳)という本がきっかけでした。『ヒロインズ』はT.S.エリオットやフィッツジェラルドなどの天才の妻だった女性作家たち、もしくは作家になり得なかった女性たちの声を膨大な資料を用いてすくい上げ、現代を生きるわたしたちに書く勇気を与えてくれる、わたしに多大な影響を与えた一冊です。著者自身も適応障害、双極性障害、強迫症などと診断されており、女性と精神疾患の関係性を文学を通して深く言及されている点においても非常に貴重な本だと思います。去年、この本を読書会で紹介する機会があり、即興で話すのが苦手はわたしは自分に響いた箇所やそれを読んで感じたことをモレスキンの黒いノートの一面に書き尽くして挑みました。そういえば、『化粧した影』を知ったのもこの読書会でした。そのようなことを連想ゲームのように考えていると、突然わたしの進むべき道のような、書くべき主題のようなものが頭に降りてきました。それが「精神疾患と書く女」です。

 わたしの近しい人には「今更?」と思われかねませんが、本当に今更、明確に自覚したのです。わたしは『ヒロインズ』を読んだときにすでに知っていたはずでした。でも、本当の意味で自分ごととしては考えられていなかったのかもしれません。

私たちは書く、記録する。なかったことにされないために。わたしの人生を肯定するために。
ケイト・ザンブレノ『ヒロインズ』
私は書かなければいけません。書くのをやめれば、私の人生そのものが、惨めな失敗だったということになってしまいます。他人の目にはすでにそう映っているでしょうが、自分にとってもそうなってしまう。それでは、死を勝ちとったことにならないでしょう。
ジーン・リース『ジーン・リース裁判』

 わたしも驚くほど同じ理由で書きはじめた、と書き殴られたメモに思い出すのは、わたしは悔しかったのだということ。ベッドに縛りつけられた自分が世界から弾き出された不良品のように感じられ、悔しかったのです。だから、わたしだけは肯定してあげなくては、わたしだけはわたしを諦めてはいけないと言葉を綴り出したのです。

X教授たちは私たちのブログを嫌うだろう。未完成で、身体感覚が強く、過剰で、赤裸々なまでに自伝的だけど、ときには偽名を使って書かれている。そして彼らに嫌悪されるこういったすべての要素こそ、私たちが書く理由そのものだ。
ケイト・ザンブレノ『ヒロインズ』

 どうしてこの後に及んで書くことに固執しているのか。こんなことを続けて何になるのか。どうせ中途半端なものしか書けないに決まっている。書けないことに苦しめられるのなら、書かないと決めたほうがずっと精神的にいいではないか。ずっと頭に鳴り響いていたこれらはわたしの声ではありませんでした。わたしの中のX教授の声だったのです。

 「消された女性たちの系譜、私もそこに名を連ねる」

 この著者の言葉に、わたしもそれならできるかもしれないと思えました。書いた女、書けなかった女、忘れさられた女、なかったことにされた女、書くことで抵抗した女。彼女たちの地続きになら、書く意味を見つけることができるかもしれない。

もう絶版で流通していないのが残念極まりないです…

もう絶版で流通していないのが残念極まりないです…

 自分の忘れっぽさにはほとほと呆れ、もはや笑えてきますが、またこのことを忘れない限り、わたしは彼女たちの歩いた後をたどり、自分の言葉でその続きの道をつくっていくのだと思います。その指針に見つけることができただけで、今回苦しんだ甲斐があったというもの。万が一また忘れても、何度でも読んで思い出せばいい。その度に書いて記憶に刻めばいい。どこに書こうか。わたしも偽名はいくつも持っている。

 この機会にずっと気になっている島尾ミホについても本格的に調べたいですね。彼女は本当にただのヒステリーだったのか。最近の話題ですと、小泉セツが小泉八雲について語る『かくも甘き果実』も読まねばと思っています。(朝ドラ「ばけばけ」面白いですよね。先週の最後はヘブン先生に悶えまくりました。誰か観てませんか〜)常に語られる側だった女性たちの声は日本にもたくさんあるはずです。あ、つまり『良妻賢母主義から外れた人々』も今読むタイミングということ?うー、ワクワクする。

 ひとりでに興奮してきたところで、今回のニュースレターは終えたいと思います。それでは、今週もほどほどにいきましょう。

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