【Wildflowers Letter vol.23】ある日の暗闇と光について
おはようございます。最近あまり好きではない日本語は「解像度」と「言語化」。ミホ子です。
14時覚醒。15時起床。
これは今日(※10月19日)のわたしの日記の書き出しです(朝の日記の書き出しに目が覚めた時間と実際に起き上がった時間の両方を書くようにしています)。いつぶりかに悪夢と金縛りに襲われ、半日以上動くことができませんでした。文句のつけようがないほどの美しい一日を過ごしたかと思えば、これです。人生において幸福と苦難は同じだけ存在するとはいいますが、まさにそれを実感しているところです。これが毎日だった数ヶ月前を思えば、今の状態は回復傾向にあるのだと言えるのかもしれません。しかし、忘れたころにやってこられると、それはそれでダメージは大きいものです。こうしてパソコンに向かっている今もひどく頭がぼうっとして、鉛のような倦怠感がわたしに覆いかぶさっており、逃げ場のないことに絶望せざるを得ません。
そんな抗いようのない痛みと無力感にベッドで一人もがき苦しんでいた最中、ふと最近再読したある本のことを思い出しました。今回は誰かに伝えたいというより、自分自身に深いところで受け取ってほしくて、なんとか形になることを祈りながら書いています。
サナギになる日
その本は、宮地尚子さんによる『傷を愛せるか』(大月書店)というエッセイ集です。確か18、19歳くらいの頃に手にとったと記憶しています。
精神科医である宮地さんが、傷を抱えながら生きるとはどういうことか、臨床現場や留学先、旅先での出会いを通して書かれたエッセイなのですが、今日はそのなかの「開くこと、閉じること」という一編をご紹介したいと思います。
宮地さん曰く、人や物には、閉じながら変化する場合と開きながら変化する場合があるそうです。開きながら変わっていく、というはイメージしやすいかもしれません。誰かと会う、どこかに出かける、新しい環境に身を置く。異質なものが自分の中に入ってきたことで変化が起きる、という体験は多くの人が覚えがあるのではないでしょうか。では、閉じながら変化する、とはどういうことなのでしょう。
細胞は減数分裂を起こすとき、いったん細胞膜は閉じて、内外の物質交換を停止するのだと、ずっと昔に教わった記憶がある。変わるときというのは、変化にほとんどのエネルギーや注意を費やさなければならない。そのため、外からの攻撃にたいしては無防備になる。外敵が来ればたちどころにやられてしまう、ヴァルネラブル(脆弱)な状態である。だから、変わるときには閉じなければいけないのだ。
この部分、初めて読んだときはよく分からずサッと読み流していたかもしれません。しかし、数年ぶりに再読したわたしは、本当の意味でこの原理を理解し、強いシンパシーを感じました。
体調を崩してからのこの三年間、わたしはずっと閉じた状態だったように思います。思い描いていたレールから外れ、自分で自分を認めてあげることができない日々。身体の自由が失われ、あらゆる意欲は根こそぎ枯れ果てていました。人前では明るく振る舞えても、一人になった途端に力尽き、心と手足の動きを停止させるわたしは、さながらネジが切れたゼンマイ仕掛けの人形でした。
しかし、周囲のサポートのおかげで少しずつ回復し、新しい自分を形成しつつある今、その時間は確かに必要なものだったと思うことができます。否応にも一度立ち止まったことでようやく見つけることのできた景色、そして本心が、今のわたしの軸であり、指針となっているのです。
それでも、今日のような不調に見舞われれば、いつ終わりが来るのか分からない不安に押しつぶされそうになります。そしてそれは今後もなくなることはないでしょう。しかし、そんななかでもこの本のメッセージを思い出すことができれば、きっとまた立ち直れると信じることができると思うのです。
開くことと閉じることも、じつはかならずしも矛盾しない。クロスする姿勢は、閉じながら開かれている。たとえば、足を組む。片方の手で反対側の体にふれる。防御しながら、挑発する。移動するときと、ひとところにとどまるとき。人に会うことと、一人でこもるとき。クロスとは、ねじれることであり、交差してふれあうことであり、橋を渡すことであり、超えることでもある。
目の前が暗闇に包まれ、身動きが取れないとき、もしかしたらそれは変化が訪れる前の静けさなのかもしれません。サナギが蝶になるとき、繭にこもらなければならないように。
月明かりが射した気がした
そんなわけで、今日は夕方まで見事に撃沈していたのですが、なんとかニュースレターに取りかかれるところまで這い上がることができました。よかったよかった。アップルウォッチによると13時間寝ていたみたいですが。
朝食だか昼食だかよく分からない食事を済ませ、日記を書き終えたのち、いつもの作業部屋へは向かわず、リビングにある古いピアノの前へ。若干埃をかぶった蓋を開き、えんじ色のキーカバーをめくると、かつての艶は失われてもなお威光を放つ美しい鍵盤が現れます。そう、手がデカいからか、ピアノ弾けそうと言われ続けてきた人生に、いざ終止符を打たんと思っているのです。
昔、祖父が祖母に贈ったという素敵エピソード付きのピアノなのですが、『猫ふんじゃった』しか弾けないわたしはこの立派なピアノを長いこと持て余していました。そんなわたしがなぜ急にピアノを弾こうかと思ったのかと言いますと、まぁ、それはちょっと個人的な話しなのでここでは伏せさせていただきます。意を決してその固く冷たい椅子に座ると、子供の頃に姉妹でピアノを取り合いしながらめちゃくちゃに弾き鳴らして、祖父母を笑わせていたことを思い出しました。
課題曲はクロード・ドビュッシー『月の光』。元々好きな曲ですし、冒頭部分は比較的シンプルですし、何より祖母の書き込みがたくさん入った古い楽譜が家に残っていたので、この曲にしてみました。
吹奏楽部で部長だった頃の鬼のような熱がよみがえります。
ヘ音記号が読めないのでとりあえず右手だけで。しかし鍵盤って重たい…!あと指の運び方が分からない…!メロディは知っているはずなのに、必死すぎてフラットの存在に気づかず、しばらくヘンテコな曲調を奏でるなどしていましたが、やはり継続は力なりですね。しばらく続けていたら非常にスローテンポではありますが、少しずつ形になってきました。これは思っていたよりも楽しい。というか、これが弾けたらかっこ良すぎないか。そんな下心を抱きつつ、ちょっと休憩とベランダに出れば、どこからともなくピアノの音が聞こえてきました。何度も同じフレーズを繰り返し練習している様子に勝手に励まされたり、そういえば春頃にもスケール練習に励む音が聞こえていたことを思い出し、すごく上手くなっているなぁと偉そうなことを思ったりしました。
外はパラパラと雨が降っていましたが、暗く鬱々とした一日の終わりに微かな月明かりが射したような気がした夜でした。
それでは、皆さま良い一週間を。(もし良かったらコメントやシェアなどしてくださってもいいんですよ…)
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