【Wildflowers Letter vol.22】サバイブできてしまう人こそ、立ち止まるべき?
おこんばんは。今週からオイルヒーターとまるでこたつソックスとヒートテックを解禁しているミホ子です。これ冬来てるわ。ちなみに衣替えには未だ取りかかれておらず。騙し騙しやってます。
不慣れな手当てと、毒を少々
初回ははちゃめちゃに罵詈雑言を撒き散らしたカウンセリングですが、なんとか通い続けています。話した内容を瞬く間に忘れてしまうので備忘録的なものをここに残そうかと。
自己犠牲を払ってまでも社会的イシューに取り組んでしまう部分があるなーとは自覚していたのですが、それが他者に対しても発揮していたことが分かってきました。というのも、わたし基本的にやさしいんですよね。やさしいじゃないですか、非常に。それが故に無意識に自分の気持ちを抑え込んでまで他者を優先し奉仕してしまうところがあるらしいのです。まぁ、そう言われれば思い当たる節が少々。カットモデルを依頼されたら好きに切らせますし、親戚からものすごい量のフルーツが送られてくれば飛び跳ねて喜びますし、祖母から煙草をやめてと言われれば(その場では)了承することができます。一日寝たきりで過ごしていることを暗に甘えだと言われてもそう思うのもしょうがないよなと思えますし、約束を無下にされてもわたしには分からない事情があるんだろうなと責めることはしません。いやだなー無理だなー違うなーと思うことがあっても効率が良く、広義的に良い方の選択肢をとる。わたしが何も言わずに事が穏便に済むなら黙っていよう精神。度が過ぎた寛容と利他。(明らかにナメた態度をとってくる奴に対してはもちろん別ですよ)(あと、わたしのやさしさに胡座かいて甘んじてくる奴も全然許さないウーマンです)だって、やらなくちゃいけないことはやらなくちゃいけないし、やったほうがいいと分かっていることはやったほうがいいじゃないですか。代わりに誰かがやってくれるわけでもなしに。でも、こういうド真面目さって強過ぎてもあんまり良くないみたいです。
前々回のカウンセリングでの話しです。信じ難いほどに狭い個室で向かい合っていたカウンセラーがおもむろに立ち上がり、僕の席に座ってみてくださいと言ってきました。はてはて、おじさんの温もりが残る椅子にはできれば座りたくないなと思いながらわたしは座ります。するとカウンセラーはわたしが座っていた椅子を指差し、こう言いました。
「ここに過労で体調を崩し、現在も療養中で、睡眠も食事も日中の活動もままならない中、家族の介護に向き合っている人がいます。どう思いますか?」
わたしは可哀想だなと思ったので「可哀想だと思います」と答えます。カウンセラーは続けます。
「この人に手を差し伸べてあげたいですか?具体的にどんなことをしてあげたいですか?」
わたしの頭は混乱します。可哀想だし、大変そうだし、何かできる事があればとは思うものの、やるべきことはやるしかないし、この人の事情を慮っても他人がどうこうできる問題ではないという考えが反芻します。わたしはカウンセラーが求めているお行儀のいい綺麗な正解が分からず、しばらく黙り込みました。かろうじて、家に行ってご飯を作ってあげますと言ってみたものの、カウンセラーは不満そうです。その後も硬直状態が続き、諦めたのか、カウンセラーはわたしに席に戻るよう伝えました。
自分を客観視して、他者を思いやる気持ちを自分にも向けてみようワークショップだったのは分かりますが、うまくはいきませんでした。
カウンセラー曰く、わたしは人の何倍も自分の気持ちを優先するくらいで丁度いいらしいです。出た、自分を大切にしようキャンペーン。苦手です。不得手です。自己肯定感バカ高妖怪であることとこの潔いまでに己を顧みない心理は一見矛盾しているようで、わたしの中では共存しています。これが謎です。構造を複雑化しています。ニンゲンって厄介。
でもまぁ、カウンセラーが言わんとしていることは理解できるので、少しずつ、自分の感情の機微に目を向けるよう努力しているところです。本当は髪を伸ばしたかった。熟れすぎたフルーツを大量に押しつけられたのがいやだった。喫煙を咎められたのが妙に辛かった。何もできないことを理解してもらえず苦しかった。決め事を守ってもらえず悲しかった。言葉にすることで、誰かに話すことで傷の存在を認めてあげられるということはあるのかもしれません。そうすれば適切な手当てもできるというものです。存在の認識すらしてあげられなければ、その傷はどんどん化膿していき、やがてウジが湧き、もしかしたら身体の一部ごと切り落とさなければならなくなる。傷は、無かったことにはならないみたいです。
いやー、こんな具合に頭では分かっているんですけどね。実行するのはなかなか難しいです。まぁ、慣れないことをしようとしているんですからね。素直にトライしているだけ偉いです。偉すぎ子です。
それにしても、カウンセリング料が高すぎます。保険適用外なんですよ。正直たまったもんじゃないです。低容量ピルも高すぎですし、別途心療内科にも通院しているので医療費が笑えません。全部やめてやろうかと思うこと山の如しです。日本の保険制度と医療へのアクセスのしやすさは素晴らしいと耳にすることもありますが、どうなんですかね。他との比較ではなく、自分だけのオンリーワンを目指してくれ、なんて思いますけどね。
高市早苗の夕食を作るのは誰か?
以前、自分が所属する事業部の男女賃金格差を調べたことがあります。
コロナ禍のことだったと思います。全国各地で働く全社員をオンラインでつなぎ、自分たちの事業にまつわるいくつかの社会課題について選抜された社員がディスカッションするというオリエンテーションが企画されました。普段から自らをフェミニストと豪語していたわたしは、案の定「女性社員の働き方」(※うろ覚え)的なテーマでの登壇者に選ばれました。正直、張り切りました。お偉いポジションのおじさま方も視聴するとのことだったので、この機を逃すな!とわたしは日頃から感じていた諸問題を猛烈にまとめ、書き出したのです。
今はどうか分からないのですが、わたしが在勤していた時は転勤の可能性がある正社員と転勤がない契約社員では基本給が変わってきました。転勤が頻繁に行われる会社だったのです。それも全国規模で。そしてそれが不可能な従業員は必然的に契約社員となり、その基本給は正社員に対して90%のみ、という規定でした。業務内容に差はないのに、です。
わたしはこのことに強い憤りを感じていました。全国に拠点を持つ会社の事情もなんとなく分かります。が、全国転勤可という条件をクリアできるのは一体どんなタイプの人間でしょうか。その大多数は独身、もしくは既婚男性であり、クリアできない人の大半は既婚女性、または育児や介護などのケア労働の多くを担っている女性たちではないでしょうか。夫は単身赴任中で…とはよく聞く話ですが、それを妻に置き換えることは果たして現実的にあり得るのでしょうか。今振り返ると少々大胆な推測だった気もしますが、当時は周りを見渡す限り、このような状況だったのです。以下、そのときにまとめたメモが残っていたので少し載せます。
OECD(経済協力開発機構)の調査によると、フルタイム労働者の中位所得における日本の男女賃金格差は22.5%で38加盟国中ワースト3位(1位は韓国31.5%、2位はイスラエル22.7%)で、女性の平均賃金は男性の平均賃金の77.5%である。 ※諸外国の平均は88.4%
わたしたちはこの賃金格差に加担しているのではないのか。女性の働きやすさを考えるなら、まずはこの不平等な構造を見直すべきではないだろうか。と、まぁこのような話をしたかったのですが、これをちゃんと提言できたかどうかはあまり覚えていません。どんな反応があったかも分かりません。確かなのは、これが自分よりはるかに大きな組織に対して直接声を上げた初めての体験だったということです。
そんなちっぽけなわたしの精一杯の主張のことなんてすっかり忘れていたのですが、このことをふと思い出すきっかけが最近ありました。先日の高市早苗氏によるあの一言です。
「ワークライフバランスという言葉を捨てます」
この発言に対する多くの批判をネットやラジオで目にしましたが、個人的には女性が男性社会で上に立つにはここまで極端な姿勢を見せないといけないのかと、かなりショックを受けました。
この発言があった翌日、わたしは本棚から一冊の本を取り出しました。カトリーン・マルサル『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?』(河出書房新社)です。女性にとってのワークライフバランスとは一体どんな意味を持つのか、彼女がそれを捨てざるを得ない背景には何があるのか、そんなことを考えたかったのです。
結論、母親です。
本書は経済学者アダム・スミスを起点に、経済のこれまでと今を女性のケア労働の観点から読み解いた一冊です。「我々が食事を手に入れられるのは、肉屋や酒屋やパン屋の善意のおかげではなく、彼らが自分の利益を考えるからである」という象徴的な一文を残した経済学の父アダム・スミス。生涯独身だった彼の夕食を作っていたのは、彼の母親であるマーガレット・ダグラスでした。彼女は早くに亡くなった夫の資産の大半を相続した息子に頼って生きていくほかなく、その生涯を終えるまで彼のあらゆるケアの全てを担っていたと言われています。しかし、アダム・スミスの功績が語られるとき、彼女について触れられることはほとんどありません。経済、そして社会がそういったケア労働の価値を認めなかったのです。実際、GDP(国内総生産:一定期間内に国内で産出された付加価値の総額で、国の経済活動状況を示す)を算出する際にケア労働は含まれません。
また、本書では、男性によって男性のために設計された仕組みに女性を投げ入れるだけで、満足げな顔をしている経済人たちも痛烈に批判しています。現代では女性も働くのが当たり前ですが、彼女たちはただ男性と同じように働くだけでなく、家庭内労働をこなすことも求められ、それを達成できるわずかな人だけが評価される社会をサバイブさせられています。ただし、そこまでして手にした評価、あるいは賃金は男性のそれより劣るのです。読みながら、わたしはハッと冒頭のエピソードを思い出しました。わたしは、このことを実感を持って知っていたのです。
アダム・スミスが合理的な自己利益の追求こそすべてだと言えたのは、誰かが彼にステーキを焼いてくれたから。つまり、経済=ワークが成長できたのは、彼らの生活=ライフを補う存在があったからです。
高市氏の夕食を作るのは誰なのでしょうか。(もちろん、実際には多くのサポートがあるのでしょうが)彼女が自民党員を馬車馬のように働かせているとき、その党員たちの夕食を作るのは誰なのでしょうか。高市氏の発言が話題になったことで一般企業でもワークライフバランスなんて考えは甘えだといった風潮が出てきているようですが、この社会を動かしているのはワークに振り切れることを選べる人ばかりではありません。その反対側には必ず彼らのケアを担う人たちがいて、その多くは女性であったり、低賃金で働かされているケアワーカーの人たちです。はたしてそこに自由な選択権は存在しているのでしょうか。
考えれば考えるほど気が沈んでいきましたが、ずっと沈みっぱなしなわけにもいきません。落ち込むだけ落ち込んだら、またできることを粛々とやっていくのみです。自分にできることを、できるペースで続けることが大事なのではと、わたしなんぞは思います。
うーん、今日の話したかったことは、欲深くあるべきことにはもっと欲深くあろう、ということでしょうか。わたしたちは思っているより、自分を労ってあげられていないかもしれないです。ちなみに、このところの日本の政局は本当に面白い(面白くない)ので、皆さん必見です。
では、今回はこのあたりで終わりです。サイナラ。
すでに登録済みの方は こちら