【Wildflowers Letter vol.35】銀幕のクレイジー・ウィメン

『ナイトボーン-夜哭-』/『ブレイキング・ザ・フレーム』/『ドラマなふたり』/『ナイトシフト』
三島ミホ子 2026.10.07
誰でも

 親愛なる読者の皆様、ご機嫌よう。そしてお久しゅうございます。ミホ子です。

 世界を飛び回ったり、体調をぶっ壊したりしていたら全然更新できておりませんでした。特に9月は本当に厳しかったわ。あんな雨続きでバリバリ元気だったっていう人もいないでしょうけれど、とにかくいろんなことが重なってHPがゼロでしたの。そんなバタバタしていた生活も落ち着いてきましたので、また世界のはしっこでゴリゴリ書き殴っていきますわよん。皆様ついてきてちょうだいね。

 今回のニュースレターは、映画レビュー特集ですの。観たのに感想をどこにも書けていない映画が溜まってきたので、ここらで大発表していくわね。順不同でネタバレありでございます。

***

『ナイトボーン-夜哭-』 

 サーガとジョンは、サーガの生まれ故郷であるフィンランドで新婚生活をはじめるべく、彼女の生家に向かっていた。次第に陽の光が届かなくなり、森深くなっていく道を抜けた先でたたずんでいたのは、ほとんど朽ちかけているといっていい一軒家だった。不安を隠しきれないジョンだったが、サーガの熱望によって入居を決意する。思い出深い家と森に囲まれて再び生活できることに歓喜するサーガは、一目散に森へと駆け出し、彼らとの再会を噛み締める。そんな森の中で結ばれたふたりは待望の子供を授かる。サーガは完璧な幸せを手に入れると思っていた。“あの子”が産まれるまでは。

 本作は森を恐怖の対象、ある意味で悪役とし、産後の女性が陥る孤立や狂気を見事に表現している。サーガが我が子の異変に気づいても、誰も彼女の話を信じようとも、聞こうともせず、逆にサーガ自身の正気が疑われる。子から離れて過ごそうにも、本当の意味で距離を置くことはできない(作中では、子から離れると皮膚が炎症し、呼吸困難になるなどの実際の身体的症状として表現される)。外で働くパートナーとの間にも亀裂が生じ、女性たちの孤独はさらに深みを増していく。この産後の女性が置かれる、悲しきかな普遍的な状況を北欧神話を通じてファンタジーとして表現するニヒリズムに、本作が北欧ホラーであることの必然性が見られる。ヒステリック扱いされてきた女性たちも、築いていたコミュニティから孤立する女性たちも、わたしたちは実際にいる/いたことを知っている。これらは神話でもなんでもないことを逆説的に痛感させられる本作に、なぜだか泣きたくなった。

 恐怖と孤独に満ちた生活のすえ、サーガは我が子と同一化していくも、最後に待ち受けていたのは非情な真実だった。

 このクライマックスのシーン、わたしはサーガは森に代理出産させられていたのだと解釈したが、どうだろうか。そしてその事実は彼女にとって喪失であり、解放でもあったのではないかと考える。

『ブレイキング・ザ・フレーム』

 パフォーマンス・アートやフェミニズム・アートの先駆者として、現代の身体芸術やジェンダー表現に多大な影響を与えたキャロリー・シュニーマンのドキュメンタリー映画。今回のユーロスペースによる特集上映「パフォーマンス・アート:身体と空間をめぐる映画祭」にて日本初上映とのこと。

 不勉強ながら彼女のことはこのドキュメンタリーで知った。文化的および性的タブーをものともしない姿勢は、わたしの敬愛するオノ・ヨーコと通ずる部分があるなと思った。ちょうど年代的にも被っている。もしかしたら交流なんかもあったのではと調べてみたら、やっぱりあった。

 私が出会ったある構造主義のアーティストは、私の作品は個人的すぎて混乱しており、感情過多で、自己満足に陥っていると評論した。彼は言った。『君だって僕たち男のようにやれる。整然とした順序に従い、ヴィジュアル装置を駆使して。君は合理的な数字の並べ方も理解できていない』。またこうも言った。『僕たちは対等なアーティストじゃないけれど対等な友達にはなれる。僕は女流彫刻家と暮らしていたことがあるよ』と。ということは私は『女流フィルムアーティスト』ってこと? 『とんでもない、僕は君をダンサーのようなものだと思っているよ』

キャロリー・シュニーマン『Interior Scroll』

 彼女のもっともアイコニックな作品である『Interior Scroll』内で朗読されるテキストである。これを知って、わたしは愛読書のひとつであるケイト・ザンブレノ『ヒロインズ』のある一節を思い出した。

X教授たちは私たちのブログを嫌うだろう。未完成で、身体感覚が強く、過剰で、赤裸々なまでに自伝的だけど、ときには偽名を使って書かれている。そして彼らに嫌悪されるこういったすべての要素こそ、私たちが書く理由そのものだ。

ケイト・ザンブレノ『ヒロインズ』

 どこもかしこもこんなことばかりで嫌になる。だが、この風潮を変えてきたのがキャロリー・シュニーマンである。そして、彼女からのバトンを受け取って、今なおノーを唱え続けている女性アーティストたちの存在を忘れてはならない。

 最後に、昨今のアート業界における過去の女性アーティストを再評価する流れは大歓迎である。しかし、彼女たちが年齢を重ねてから、または死後でないと評価されない現状もそろそろ打破していくべきではないかと思う。

『ドラマなふたり』

 結婚式を7日後に控えたチャーリーとエマは、付き添い人でもある親友夫婦と式で出す食事の最終チェックを行っていた。そんななか軽い思いつきで始まったのが、これまでにやった最悪な行いを暴露するというゲーム。それぞれなかなかキツい告白をしていくが、最後のエマの告白にその場が一気に凍りつく。彼女を信じたい気持ちと信じきれない気持ちがせめぎ合うチャーリー。しかし時間は刻々と過ぎていき、ついに式当日を迎える。

 この映画、全体を通してロケーションやインテリアが素晴らしいのだが、ただのおしゃれロマンス映画と侮るなかれ。ゼンデイヤ演じるエマの、世間とは少々ズレた感覚は、チャーリーたちだけでなく我々の肝も冷やし続ける。

 お気に入りのシーンは、チャーリーとエマが式で披露するダンスの練習場面だ。優雅でたくましく、でもチャーミングさも忘れないふたりのこのシーンは本当に夢を見ているようで、冗談抜きでこれで映画を一本つくってほしいくらいに美しく、胸がときめいた。しかし、そんな夢からもエマによって強制的に目を覚まさせられる。

 なんというか、この観客をハラハラさせる感じというか、居心地の悪さを引き延ばしに延ばして最後に大爆発させる感じ、観たことあるなと思ったら、プロデューサーがアリ・アスターだったので万事合点がいった。

 問題はなにも解決せず、なんなら増えた状態で迎えた式当日。想定しうる最悪なことはすべて起こるので、そこは安心してほしい。そして、そんなドラマを終えたふたりが選ぶ道とは。個人的にこのラストにはあまりカタルシスを感じなかったのだが、自分だったらどう幕を下ろすかをずっと考え続けているので、しっかり刺さったようではある。もっと突き抜けても良かったのではと思う一方、ある種の希望のようなこの展開にそれはそれで安心している自分もいる気がしている。まぁ、むずかしいバランスか。

 ふと、エマは村田沙耶香の『コンビニ人間』的要素があると言えるかもしれないと思いいたる。アリ・アスターと村田沙耶香、いつかこのタッグを見てみたいものだ。

 内容とは関係ないが、個人的にポスタービジュアルが大変好ましい。劇中でも写真として登場する一枚なのだが、すごく自然に親密なふたりの空気が伝わってきて非常に良きである。そう、ふたりは本来とてもフィーリングが合うのだ。しかしそれは、相手には自分の知らない一面なんてないという意味ではない。

『ナイトシフト』

 ロンドンの高級住宅街ノッティングヒルにたたずむとあるホテル。夜勤受付係として働く女性と、そこにやってくる風変わりな客たちのある一夜をのぞき見る、独創的で、少々奇妙なこの映画体験は、恐らくほかでは味わえないだろう。

 1980年代初頭、サッチャー政権下のロンドンは政治的混乱の真只中。本作は、新自由主義へのカウンターカルチャーとしてインディペンデントアートが盛んだった1981年にロビーナ・ローズ監督によって製作された。イギリスにおけるカウンターカルチャーといえば、国立新美術館で開催されていたYBA(Young British Artist)展が記憶に新しいが、似たような空気感のなかで製作されたのだろうかと推測する。

 主演のジョーダン(パメラ・ルーク)が本当に素晴らしかった。英国のパンクカルチャーのアイコン的存在だった彼女のもつ唯一無二の雰囲気は本作を成り立たせるうえで欠かせないものだっただろう。わたしもたまたま見た予告編の彼女が醸し出すオーラにやられて観にいったくちだ。

 ただ、前情報なしで観たわたしは正直かなり困惑した。冒頭に紹介したとおり、本当にあるホテルの一夜を切り取っただけなのだ。なにか事件が起きるわけでもない。主人公の女性は粛々とルーティンワークをこなし、朝を迎え、帰路につく。ライブを終えたバンドマンとそのマネージャー、親との関係がこじれた伯爵夫人、夜通しポーカーにいそしむ男たち。そんな客たちを彼女はただ見つめている。

 しかし、今になって思い返すと、久しぶりにただただ未知なるものを浴びて、肩の力が抜けたというか、理屈抜きに鑑賞できたように思う。あまりにも脈絡がなく、比喩やカメラワークから製作者のメッセージを読み解こうと意気込むことなくアートを楽しむことができたのだ。

 何者でもない、一労働者を映画にすることになんの意味があるのかと問われれば、意味なんてないのかもしれない。だが、世の中の大半は彼女と同じ何者でもない人たちだ。本作はまるではじめて『不思議の国のアリス』を読んだときのような、少しへんてこで、言いようのない魅力的な世界がわたしたちのすぐ近くにあることを知らせてくれたような、そんな体験だった。

同時上映していた『ザ・ゴールドディガーズ』が観逃したのが悔やまれる

同時上映していた『ザ・ゴールドディガーズ』が観逃したのが悔やまれる

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 皆様、いかがでしたでしょうか。ほとんどが上映終了間近という不義理な映画レビュー回となりましたことをお許しくださいましね。それにしても、偶然か必然か、いずれの映画もイカしたクレイジー女たちばかりで興味深いわ。

 それではまた次回のニュースレターでお会いしましょう。ご機嫌よう。

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