【Wildflowers Letter vol.36】忍び寄る非日常、それでも続く日常
皆様ごきげんよう。この秋、すでに柿を30個はいただきました、ミホ子でございます。
最近は、来年の春に向けて大量のチューリップを仕込んだり、バラの葉っぱを食い散らかすイモムシと毎朝格闘したりと、なんだかんだ忙しく過ごさせていただいております。
今回のニュースレターの前半は8月に執筆したものなので、話題が少々古いですが、今でも発信する価値はあると思ったので、そのままお届けいたします。後半は、いつもの批評でございます。それでは、レッツラゴーマウンテン。
楽天経済圏からの脱却
クレジットカード、電子マネー、銀行、証券、ネットショッピング。そのすべてを楽天に集約する、いわゆる楽天経済圏で長年生きてきたミホ子。そんなわたしに大変ショックなニュースが飛び込んできた。
時事通信の報道によると、楽天グループがドイツのドローンスタートアップ会社ヘルシングと防衛省との仲介役を担うかたちで、攻撃型ドローン「HX-2」を陸上自衛隊への導入、および今後の国内生産に携わるのだそう。すでにウクライナに数千機納入されている「HX-2」とは、陸上から遠隔操作し、沿岸に近づく潜水艦などを攻撃するための武器であり、いくつかのネットニュースでは、少しでも印象を良くしたいのか「迎撃型」と表記されているが、ヘルシング社の公式HPには「Strike Drone(攻撃型ドローン)」と明記されている。

軍事用語における「strike(ストライク)」は、敵の拠点や目標に対する「軍事攻撃」「空爆」「急襲」を意味する。
怒髪天をつく勢いでブチギレたミホ子は、すべてのサービスを他社へ乗り換えることを決意。一先ず以下の通りに変更手続き中。
・クレジットカード→三井住友カード
・電子マネー(日々の支払い)→三井住友カード
・銀行→Olive
・証券→SBI証券
・ネットショッピング→Amazonか通販生活、またはブランドオフィシャルサイト
まだ完全移行はできてないが、準備が整い次第、楽天に関するすべてを解約するつもりである。できることしかできないけど、これくらいはやらせていただく。
というか、こんなに生活に密着した大企業が今このタイミングで軍事産業に参入するなんて、まじで、消費者なめてんのかって話でしかない。自分が払ったお金がその先で何に使われるのかを考えるのは日本でも当たり前になりつつあると思う。これまでの高市政権の暴挙で、自分たちの税金の使われ方に敏感になっている人は増えてるし、キャンセルカルチャーやBDSの文化だって浸透してきている。それを踏まえてのこの決断はつまりわたしのような少数派が離れたって、軍事産業やった方が儲かるという算段なのだろうか。まじファッッ。
ネット上では、楽天だけキャンセルしたって既に軍事産業に携わっている企業はこれくらいあって、これもキャンセルしないと意味ないっすよ的なことを言ってる投稿も多いが、本当に、こちらのやっていることはそんなに気にしないでもらえる?もっと自分に集中しな?あと、お前だれ?
そんななか、素敵なニュースもあった。通販サイトの通販生活が楽天市場からの撤退を発表。その理由として、憲法九条に反するとのことをあげている。この対応がかなり早く、拍手喝采であった。こういう企業のほうが応援したいし、利用したくなる。 もう、わたしのようなユーザー層を狙ったビジネス観点でいいから、同じような声明を発表する企業がもっと増えないだろうか。もし平和を望むのであれば、体現していこうぜ。War is over, if you want it.
しかし、ここにきてまさかのVポイントユーザーに転身するとは……。笑えぬ。
チママンダ・ンゴズィ・アディーチェという語り手
今回の批評は、わたしがもっとも敬愛する作家の一人であるチママンダ・ンゴズィ・アディーチェ『半分のぼった黄色い太陽』(河出文庫)を取り上げようと思う。
アディーチェとの出会いは2016年だったと思う。当時勤めていた本屋で文芸書を任されていた。選書から仕入れ発注、棚づくりまで行っていたわたしは、わたしが気になる本はみんな気になるだろうというジャイアン思考で、自社の売上予想ランキングなど気にせず、ただ自分の勘だけを信じて好き勝手に発注していた(この我の強さで社長に気に入られるので反省はしていない)。とは言いつつ、そんなに詳しいわけではなかったためTwitterから得られる情報もかなり参考にしていた。小説家、翻訳家、出版社、本好きの一般ユーザーなど、自分のアンテナが反応した人たちが噂している新刊本は強気に発注した。
そんななかで出会ったのが、ナイジェリア出身の作家チママンダ・ンゴズィ・アディーチェだ。当時、くぼたのぞみさんによる翻訳で刊行された『アメリカーナ』という長編小説が話題になっていた。初めて知る作家だったが、店頭に並べてみた。しかし、544頁にも及ぶ長編海外小説はなかなか動かず(大ヒット作『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』が日本で刊行される前だったのも理由のひとつだと思う)、そろそろ返本かと思い、改めて手に取りパラパラと読んでみた。こんな分厚い海外小説(しかも二段組!)、わたしだって読んだことがなかったが、そのあまりにも自然な情景描写や人物表象、そして随所に散りばめられるユーモアとニヒリズムに吸い込まれるように没入させられ、気づけばその日の休憩時間に購入していた。
あの読書体験をどう表現したらいいだろうか。当時のわたしが少なからず持っていた翻訳文学に対する難解さ、こちらが懸命に読解しながら読まなければならないもの、といったようなイメージはその衝撃をもって一掃された。事件だった。
それからも彼女の新刊が出るたびに手に取ったが、一度も期待を下回ることはなかった。その豊穣な文章は常にわたしの創作意欲を掻き立て、文学に対する信仰を強固なものにした。そう、彼女はわたしにとって信仰対象ともいえるかもしれない。
『半分のぼった黄色い太陽』は2010年に河出書房新社から同じくくぼたのぞみさんの翻訳によって刊行され、今年の6月に16年越しに文庫化された。長らく流通しておらず入手困難だったタイトルだったため、わたしは狂喜乱舞した(単行本で買うより文庫上下巻で買うほうが高かったのは全部自民党のせいにした)。最寄りの信頼している本屋でしっかり面陳されているのを確認し、にっこり微笑みながら鼻息荒く有人レジで購入。わたしが書店にかぎって有人レジを好むのは、万が一、目の前のスタッフが仕入れたものだったらと妄想し、あなたが選書したこの本、わたし買います!ナイス選書です!との旨を伝えたいというエゴが抑えきれないからである。自身が選書した本を自分で手渡す体験ほど、書店員として嬉しいことはないのだ。
本作の舞台は、数百万人もの死者・飢餓者を生んだビアフラ戦争が勃発した1960年代のナイジェリアである。田舎から都市スッカにハウスボーイとして連れられてきた少年ウグウ、ナイジェリア最大の都市ラゴスの裕福な家庭で育った女性オランナ、そしてイボ美術に魅せられ、この地にやってきた英国人リチャード。この人種、性別、肌の色、貧富の異なる三人の視点から語られるのは、戦争がいかにして平和な生活に忍び寄り、大義という甘い毒で人間の理性を麻痺させ、残虐な行為を実行するにいたるかという、たった60年前の記憶である。
田舎育ちの少年ウグウは、叔母の伝手でアフリカニズムに燃える若き教育者オデニボのもとでハウスボーイとして働き始めることになった。はじめて見る冷蔵庫や蛇口、ピカピカのラジオグラム。大きな書棚に入りきらず、いたるところに積み上がった書籍の山。何もかもが先進的に見えるウグウは、すぐにオデニボを深く尊敬するようになった。やがて彼の恋人であるオランナがロンドン留学から帰国し、一緒に暮らすこととなる。最初こそ、オデニボとの生活が壊れてしまうのではないかと警戒していたウグウだったが、すぐオランナに魅了され、三人での暮らしはウグウにさらなる充足感をもたらした。ウグウはこの平和な時間がずっと続くことを願ってやまなかった。そんなある日、ラジオグラムから流れてきたのは、クーデターの勃発を知らせる一報だった。
本作は、ただの戦争文学ではない。
戦争を題材とする小説の多くは、日常が奪われていくさまを強調しがちだが、本作は恋愛のもつれや家族との煮えきらない距離感といった、人間の普遍的な複雑性が、戦時下においても途切れず続いていくことを描いた作品だ。
例えば、オランナと双子の姉カイネネ、そしてカイネネの恋人であるリチャードの間には、ある出来事をきっかけに、互いに触れてはいけないような空気感が生まれていた。しかし、戦争が長引き、カイネネが運営する難民キャンプにオランナが手伝いに来るようになると、最初こそ取材のためと朝早くから席を外していたリチャードだったが、いつまでもそうすることはできず、ついに三人が顔をあわせる日がやってきた。オランナが先に挨拶をし、リチャードが挨拶を返す。カイネネは笑いながらこういうのだった。
「リチャードはもう旅行をでっち上げることができなかったの」
この部分だけを抜き出せば、恋愛ドラマである。しかし、舞台はトカゲやねずみを捕まえて食べる飢餓状態にあるナイジェリア内戦下のビアフラだ。この絶妙な人間臭さと緊迫感の交錯が、登場人物たちをより現実味のあるものとして立ち上げる。
また、著者の作品全般に言えることだが、セリフひとつで登場人物の人間性に輪郭を与えるレトリックの見事さは本作でも読みどころのひとつだ。
オランナが母方の親戚が住むカノを訪れる場面はわたしのなかに特に印象に残っている。彼女の叔父ムバエズィと叔母イフェカは、ペンキも塗られていない細長い平屋に住んでいる。彼らにとって、オランナは近所の皆が知っている、大好きで自慢の姪だ。彼女が来れば、貴重な鶏だってつぶすし、唯一のベッドだって彼女に譲る。たくさんのお土産を広げるオランナの後ろで、イフェカおばさんは繰り返しこう唱える。
あんたのためにおなじことを、だれかがしてくれますように。
自分でしてあげたいことを、だれかに託さなければならない切なさを、こんなにも鮮明に言い表すセリフが他にあるだろうか。この章はオランナの視点で語られているが、このセリフで読者は一気にイフェカおばさんの立場に立ち、彼女の人生に思いを馳せることになる。そうしてイフェカおばさんという人物像を浮かび上がらせるのだ。
同じ場面には、もう一つ、言葉にされない葛藤が描かれている。
オランナはしばらく一緒に座っていたが、二人のハウサ語が早すぎて、ついていけなくなった。おじさんやおばさんやいとこみたいに、ハウサ語やヨルバ語をもっと上手く話せるといいのにと思った。交換可能なら、フランス語だってラテン語だって喜んで放出したいくらいだ。
オランナは腰かけている椅子をドアの近くへ、新鮮な空気のほうへ移した。でも、イフェカおばさんや、アリゼや、隣の人に、煙のせいで目が痛くて、喉がいがらっぽくて、ゴキブリの卵を見ると吐き気がするなんて知られたくなかった。そんなことにはすっかり慣れている、この生活には慣れている、そう思われたかった。
本来、ロンドンで身につけた教養と、叔父叔母の暮らしに、優劣などないはずだ。それでも、称賛されるほどに、そして自分の身体が煙や虫に耐えられないと気づくほどに、オランナは望まない序列を引き受けさせられていく。そこには、植民地支配がゆがませた価値観の影が見えるように思う。なにが上位で、なにが下位なのか。その価値観はどこからきたものなのか。これは現代を生きるわたしたちにも大いに通ずる批判ではないだろうか。
2007年、アディーチェは本作で女性作家が英語で執筆し、前年にイギリスで刊行された長編小説のうち、最も優れたものに与えられるオレンジ賞を史上最年少で受賞した。
上下巻合わせて約800頁の大作だが、アディーチェのウィットに富んだ筆力、そしてくぼたのぞみさんによる素晴らしい翻訳のおかげで、ナイジェリアの文化的背景や歴史に馴染みのない読者にも読みやすいものとなっている。これを機にアディーチェの世界に触れてみてもらえると大変嬉しい。
また、個人的にはアディーチェの作品は長編ものが大好きなのだが、なかなか手を出しづらい人も多いと思う。そういった方は短編集『なにかが首のまわりに』やTEDスピーチをまとめた『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』などから手にとってみてはいかがだろうか。いずれも河出書房新社から文庫で刊行されている。

わたしのアディーチェ・コレクション
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